どんぐりと民主主義 PART2
これからの住民自治のゆくえをめぐって
いままでの公共事業をどうするか
宮台―― 金融緩和で企業が使えるカネを増やしてサプライサイドを身軽にし、公共事業でデマンドサイドを一時的に活性化させて設備余りや人余りを解消する。問題は、こうしてもたらされる一時的な好況感を背景に産業構造改革が行なえるかどうかです。その帰趨を目に見えるかたちで示すものが、いままでの公共事業をどうするのかということなんです。
日本の公共事業は一九七〇年代まで、つまり田中角栄の頃までは「産業基盤整備」が主軸でした。産業振興のために新幹線とか高速道路や港湾施設をつくっていく。それ以降は「生活基盤整備」と言って、いわゆる「はこもの」をつくったり、土地改良事業や生活道路整備を行なうようになります。
僕が小学生だった一九七〇年前後には、道路の舗装率が二割未満で、主要先進国の半分以下だと習いました。いまは八割以上。「生活基盤整備」は十分になされ、いらない「はこもの」がつくられつづける状態になっていました。そこに3・11が起こったんですね。
そこで出てきたのが、防災・減災のための公共投資、いわゆる「国土強靱化4」です。リダンダンシー5とかスペアと呼ばれる考え方ですが、「いざというときに新幹線一個では足りない、二個も三個もあれば一個がダメになっても大丈夫」と考えて、これからも新幹線や高速道路やバイパスをばんばんつくろうという話ですね。
これには京都大学人脈が大きな影響を与えています。残念なことに、京都大学大学院工学研究科教授であり、現安倍内閣の内閣官房参与を務める藤井聡さんなどがそういう方向にシフトしてしまっているんですね。誤りとは言い切れないのですが、問題です。
問題は、そこで抜け落ちる視点です。九〇年代に入って平成不況が起こる前からシャッター商店街化が一部で進んでいました。全国の売買春フィールドワークの際に理由を確認していますが、バイパスをつくったからなんですね。
かつて、沖縄を除く日本の地方はすべて例外なく「鉄道城下町」――鉄道駅の前に商店街があって周辺に住宅があるというかたち――でした。ところが七二年に誕生した田中角栄内閣が「日本列島改造」を旗印にモータリゼーションに適応した基盤整備を行なう。
これは「産業基盤整備」の最後の時代で、このときに高速道路網と新幹線網が一挙に計画され、どんどん実現されていきます。このバイパス建設が果たしたネガティブな機能がとても大きいんです。
バイパスをつくるとどうなるか。新住民が住むバイパス沿いに新しいにぎわいが生じる一方、かつてのにぎわいの場所だった旧住民が住む駅周辺に、人が集まらなくなってしまい、地元商店街が平成不況になる前からシャッター化しはじめたわけです。
これはまずい展開です。ヨーロッパでは、モータリゼーションに対応して、旧市街を活かすべく、まず車がアプローチ可能な駐車場を町周辺に多数つくり、町の中心部に車が入れないようにして歩行者と自転車だけが回遊できる場所をつくるやり方をしました。
ここに、マルシェ(市場)、つまり祭りの出店やフリマみたいなものも含めて人びとが集まれる場所をつくったり、人びとが談話できるカフェや居酒屋をつくったわけです。そうすると、駅前市街地のにぎわいが減らないし、観光資源としての付加価値もあがります。
日本はバイパスをつくって駅前商店街を空洞化させてどうなったか。全国一律に国道20号線的な風景が広がるようになります。パチンコ屋があり、消費者金融があり、大規模郊外店舗がある。どこも同じ風景。観光的な付加価値もゼロになってしまいました。
新住民にとって、バイパス沿いにできた新しい街は、家族でアプローチできるバリアフリーな場所でもあります。悪い面だけではないんです。たとえば旧市街からなる下北沢は「住みたい町ランキング」の上位常連ですが、バリアフリーではなく「バリアアリー」。つまり、バリアありまくりで、小さい子どもがいる親やお年寄りにとってきつい町です。
旧市街と新しいバイパス沿いの街との決定的な違いは、ハコの大きさ、路地の有無、あるいはブロックの大きさです。旧市街は歩行者スケールで、バイパス沿いは車スケールです。たとえば、散歩をして「あの家の庭に花が咲いた」「この家に新しい子が産まれた」ということに気づけるスケールは、数十メートル歩く毎に路地があるようなサイズです。
僕が住んでいる世田谷は路地ばかりです。昔の畔道が道路になったものですからね。他方、僕が勤める首都大学東京は南大沢ニュータウンにありますが、ここはワンブロックが一辺一〇〇メートル以上あったりするので、芝生があったり植え込みがあったりするものの、一〇〇メートル歩いても風景が変わらない。つまり「歩けない街」なんです。
建築家の隈研吾さんが、3・11のあと、とりわけ「規模」に注目して、これからの建築は大きなものをつくってはいけないとして、『小さな建築』という本も出されています。要は、単なる安全・安心・便利・快適だけでなく、人間にとって意味のある「場所性」を取り戻すためには、サイズに注目する必要があるとしています。
中沢―― 南大沢に大学ができる前の風景を僕は知っています。あのあたりは縄文・弥生時代の遺跡もたくさんあり、すばらしい景観だった。そこへ大学ができたときは、残念ながらものすごくがっかりしました。
最近、あるシンポジウムに参加するために九州大学の新校舎に行く機会がありました。もとは箱崎というところにあったんですが、旧校舎は旧帝大の建物でこぢんまりとして、建物の中身も非常にセンス良くつくられていました。それを糸島に移転しました。
糸島市は魏志倭人伝に出てくる伊都国と斯馬国があったところなんですね。伊都国の場所はわかっていたんですが、斯馬国がどこにあったか長いこと不明だった。だいたい糸島の志摩町のあたりにあるとは言われていたんですが、確証されていなかった。そこへ九州大学がやってきた。大整地を行なったら遺跡が出てくる出てくる……。ここが斯馬国に違いないとなったんですが、もう遅かった。
大学の学問とは何なのか、ということを大いに考えさせられました。こういう「原罪」の上に、調子のいい学問がのっかっているわけですから。
宮台―― 変な話ですが、盛土をして埋め戻し、その上に構造物を建てるのであれば良いというのが、いまの日本の法的な枠組みですね。ですから、一応「コンクリートのキャンパスの下に遺跡が保存されている」ということになっているわけです(笑)。
國分―― 宮台さんがなされたバイパスの話を聞きながら、3・2・8号線のことを思い出しました。建設予定地の北側、西武国分寺線の小川駅のほうはまさに国道20号線的な風景なんですね。巨大な道路の両側に、どこにでもある大型店舗が並んでいる。昨年末、グリーンアクティブの方々に道路建設予定地を案内したんですが、小平中央公園と玉川上水がある鷹の台駅のあたりからそちらのほうに歩いていったら、みなさん愕然としていました。「これがあそこにできるんですか……」、と。鷹の台駅のまわりは、それこそ社会的包摂があって、子どもが近所の大人に声をかけてもらえるような場所ですけれど、もしそれが失われてしまうとしたら、これはほんとうに甚大な被害です。緑の問題は緑の問題に留まらない、社会の問題なんですね。
(撮影:加藤嘉六)