どんぐりと民主主義 PART2(4)

どんぐりと民主主義 PART2
これからの住民自治のゆくえをめぐって

大きいスパンで考える

宮台――ベアード・キャリコットという、ディープエコロジストの精神的支柱になっている環境学者がいます。キャリコットは、環境や地域というのは、動物・自然・人間・人工物などを含めた全体が、ひとつの生き物なのだと言います。だから、環境開発は、いわゆる民主主義に基づいてはいけないのだとします。

人びとが、自分たちにとって利益になる、あるいは自分たちにとって心地よいものになる、という評価の尺度で開発すると、街はずたずたになってしまうのだ、と言っています。ヨーロッパの伝統では、都市開発には民主主義はふさわしくないというのが普通の考え方ですが、それを理論的に正当化していると言えます。

なぜ人びとの民意で開発してはいけないか。理由は、街という生き物のタイムスパンは、人生のタイムスパンよりもずっと長いからです。安心・安全・便利・快適というのは人生のタイムスパンです。これらの価値に基づく街は、より便利で快適な場所があれば引っ越したいという思いが典型であるように、入替可能性に満ちています。

そうではなく、便利・快適において劣っても自分たちの街にこだわりたいと思えるのは、キャリコットは、街という入替不可能な生き物が、人に尊厳を与えているからだとします。だから、生き物としての街の全体性を考えて、生き物としての街の自然な展開にとって意味があるような開発をすればいいし、意味がないならやめればいいと言います。

そうすることが「住みたい人」を増やすことにつながります。尊厳という観点からすれば「住みやすい街」と「住みたい街」は違う、というのがキャリコットの主張です。その街に住むことが、安心・安全・便利・快適を超えた、価値や世界観の問題だ、と考える人たちを増やすには、街全体を人間的尺度を超えた生き物として扱わねばなりません。

中沢―― 目先のスパンで考えていることが間違いなんです。大きいスパンで考える経済学が必要だということですよね。お金は富よりも狭い概念ですが、いまの経済も生活もお金の平面で動いています。そうすると、経済的価値を越える富や豊かさが見えなくなってしまいます。

宮台―― そのとおりです。キャリコットは反功利主義と反義務論を自称する人ですが、単なる反功利主義者じゃありません。その証拠に、彼の言う尊厳が、僕たちにも触知可能なものだからです。「終わりよければ」の「よさ」の物差しに便利・快適だけが含まれ、尊厳が含まれていないことが、彼の指摘する問題です。合理主義の外側にあるわけじゃない。

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具体例をあげると、全国総合開発計画7は、戦間期からはじまった重化学工業化、都市化、郊外化の展開のなかで培われた、「経済成長によって、安心・安全・便利・快適の度合いがあがることが、豊かさなんだ」という合理性の特殊モデルに基づいています。それが「産業基盤整備から生活基盤整備へ」という流れの本質です。

ところで、さっき言ったように、東京の「住みたい街ランキング」でいつも吉祥寺と下北沢が一位、二位になります。下北沢がどうして上位にくるのかは自明です。交通障害があるからです。道が狭すぎて、一応車は通れるものの、クラクションを鳴らして歩行者をかき分けないと進めません。クラクションを鳴らすと車を蹴られたりもします。

下北沢の素敵さは、車で入ったらもう抜けられないような場所なので、人が滞留する、というところに由来します。その下北沢が、交通障害を理由に再開発がなされようとしていたんですね(笑)。保坂展人区長が当選してからは、僕もブレーンになっていますが、中心部から車をシャットアウトして、歩行者スケールの街にする方向に進んでいます。

なので、車が便利にそこを通過できるとか、車で直近までアクセスできるといった、便利・快適が、キャリコット的な意味でほんとうにいいことなのかどうかを、地元の人たちがよく考える必要があると思います。このように、下北沢という街の生き物としての全体性は、さして神秘的でも何でもなく、オルタナティブな合理性のモデルで記述できます。

ほかに典型的な例としては、新幹線や高速道路で街が活性化するという議論があります。しかし実際には、ストロー現象と呼ばれているように、週末になると新幹線や高速バスに乗って、福井であれば金沢に、つくばであれば東京に出かけてしまい、ぜんぜん地元にお金が落ちないということが起こります。街が入替可能だからそうなってしまうのです。

國分―― ストロー現象というのは、経営学では当たり前のことですね。経営学者は誰でも知ってますよ。にもかかわらず、そういった当たり前の理論が活かされない。あたたかい古い町並みを残そうということは、物事を経済的・合理的に考えるのをやめようという話ではないんです。まったく逆です。

中央で考えられている計画は、計算しているパラメーターの数が少なすぎるんだと思います。つまり、検討されている情報の量が少なすぎる。もっとたくさんのことを考えなければいけない。当たり前のことですけど、社会はものすごく複雑なのだから、多くのことを同時に計算して物事を決める必要があります。その際にもっとも多くの情報をもっているのは、その土地の人です。だから彼らのもつ情報を活かさなければ、きちんとした計画など出てこない。でもそれがなされない。

物事を経済的・合理的に考えるためにこそ、もっとも多くの情報をもっているその土地の人の意見を最大限に活かすという自治の考えが大切なんですね。この点は強調したいです。

宮台―― 國分さんのおっしゃったことは大切です。中央主導の開発計画だけでなく、自治体主導の開発計画でさえも、顔の見えない場所で役人が立てるものですから、その街がどんな生き物であるのかなんて参照できるはずもありません。同じことは震災復興計画についても言えます。

復旧と復興は違います。震災は復旧で足ります。でも津波災害は無理です。もとの場所に住めず、高台移転も道路付替えも港湾設備変更も新産業誘致も必要だからです。どれも中央官庁の許認可が不可欠です。阪神大震災のときにできた災害特措法が復旧しか想定していないので、許認可の壁に阻まれて前に進めません。

復旧ならざる復興は、しかし中央主導の許認可行政では無理です。津波で更地になってどの町も、新たに人を呼び込むための物語が必要です。うちらの町はもともと然々だからケアを売り物にした町をつくろう、みたいな。ところがそこに厚労省が立ちはだかり、病院は人口これこれにひとつにしてくれ、というふうになります。

中央主導の復興でなく、地元主導の復興に転換するしかないのですが、それには中央が予算をつけて許認可手続きをするというシステムを変更する必要があります。実際、たとえ予算がついても、許認可の壁に阻まれ、予算消化率は四割。この障害を越えるには、省庁縦割りの廃止しかありません。これに道筋がつくのを恐れて、中央が故意にサボタージュしていると見えます。

原発災害であれ津波災害であれ、中央行政は地域を見放すということが、今回の災害でのいちばんの教訓です。この教訓に学ぶのなら、中央行政に依存する作法を改め、住民自治を進めるほかありません。中央行政を都道府県行政と言い換えても同じです。要は顔が見える範囲での、〈任せて文句埀れる作法〉から〈引き受けて考える作法〉へのシフトしか、ありません。

(撮影:加藤嘉六)

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