どんぐりと民主主義 PART2(5)

どんぐりと民主主義 PART2
これからの住民自治のゆくえをめぐって

自分たちで公共を定義する

宮台―― 國分さんがおっしゃったように、これまでの日本の基盤整備事業、国交省的な国土総合開発はまったく自治に基づいていませんでした。それが古くからあった固有の価値がある町を損ない、どこも入替可能な風景になりました。戦後、一律のインフラ整備が必要な時期があったことは事実ですが、必要な段階を過ぎても同じことを続けてきています。

これからはグローバル化つまり資本移動の自由化を背景に、先進国はどこも財政的に貧窮していきます。なかでも、国民からの借金だとはいうものの、政府の財政赤字率はどこよりも高く、現在、三人で一人の六五歳以上の方を支えていますが、あと三〇年もすれば、一・二〜一・四人程度で支える状態になります。これはもう確定していることです。

リフレ派には、年二パーセントのインフレ率を達成すれば、景気の好転で税収が上昇し、財政が好転するので、政府が借金を返せないという信用不安は起こらないという人もいます。でも、それには、一時的な好況のあいだに労働分配率上昇と産業構造改革が必要ですが、可能性は乏しく、また欧州信用不安が再燃しただけで持続的な財政改善が不可能になります。

他方、一般会計歳出に占める社会保障費の割合は、現在の三割からますます増大するので、国のお財布あるいは公共事業にぶら下がるタイプの生き残り方はできないんです。復興事業であれ防災・減災事業であれスペア化・リダンダンシー化の方向であれ、住民自治をベースにし、自分たちの町に固有の物語に応じた「いる・いらない」の判断が必要です。

繰り返すと、国交省をはじめとする中央の役人には、日本の津々浦々、地方地方に、どんな公共事業が必要かを判断する力は、いまはありません。能力の問題でなく、経済的発展のステージがかつての産業基盤整備や生活基盤整備の時代から先に進んでいるからです。中央の役人が各地域に固有の物語を描けるなんてことは、情報理論的にありえません。

だから、各地域のことを知る地元住民らが、自分たちが生きる街の生き物としての全体性を振り返り、それにマッチした物語をシェアし、それにしたがって公共事業の「いる・いらない」を決定していく以外、地域が生き残る方法はありません。これは、どの政策を選ぶかという贅沢な課題でなく、地域がサステイナブルであるための「唯一」の選択肢です。

僕は世田谷区でいろいろな行政に審議会を通じて関わっています。三月二三日に小田急線地下化が一応完成をして、世田谷代田駅、下北駅、東北沢駅がすべて地下になりました。この工事は、地上の線路があった部分の一部に大きな四車線道路をつくる計画と表裏一体になっています。

これを世田谷区長権限でキャンセルすることはできなくはないんですが、やれば東京都と対立関係に入り、都や各業者とも訴訟合戦となって、行政が止まります。だから、いま世田谷区は、開発を中止するかわりに、ぎりぎりのところで住民主導で開発内容の一部を決めるべく、ワークショップや公開討論会を繰り返し開くやり方をとろうとしています。

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ほかにも世田谷区では、屋根にソーラーパネルをつけると、六年から一〇年でもとがとれる仕組みもつくりました。また、東電以外の電力会社(PPS)から電力を購入できる競争入札の仕組みを逸早く取り入れました。地域住民の太陽光発電や他地域で自然エネルギー発電した電力の購入を含めた世田谷電力という地域電力会社の構想もあります。

加えて、いまは東電以外から電気を買えるのは事業者だけです。たとえば世田谷区は買えるけど、一消費者である区民は買えない。そこで、一般消費者が東京電力以外から買えるように、消費者が共同購入の組合をつくれる仕組みを導入するための模索を、生活クラブ生協と続けています。

これらはすべて同じ戦略です。脱原発と言うと一挙に多数の敵をつくります。だから、そのかわりに、たとえば「世田谷区の公共施設が使う電気をPPSから買うと年間六〇〇〇万円以上お金が浮きます」と言えば、これには誰も反対できないし、実際実現しました。このようにして原発を支えていた自明性をじわりじわり変えるのです。

発送電分離もそうで、世田谷区などを真似てPPSから電気を買おうとする自治体がたくさん出てきたので、PPSがすぐに払底してしまいました。なぜこうなるかというと電力の卸市場がないからです。電力卸市場がないのは発送電が分離されていないからです。なぜ発送電が分離されていないかというと、電力会社が権益のために妨害してきたからです。

でもPPSの払底を機にこれらの事実が誰の目にも明らかになった結果、発送電分離の計画が実現する道筋が見えてきました。発送電が分離できれば、あとの電力購入はまさに住民自治の問題です。原発を電源に含む電力を買わないようにすれば、原発を運転する電力会社はいずれは原発放棄に向かうか、つぶれるしかなくなります。これでいい。

要は、僕たちがお金を節約できる仕組みを電力会社が妨害している事実を、自民党支持者や支持団体にていねいに説明していくことが大切です。脱原発と言えば反発してしまいますが、「僕たちの手元にお金を残すための工夫をしたいのに、妨害する仕組みがあるので、廃止させていきましょう」と言えば、なるほど、そうか、という話になります。

これは一例でしかありません。実は僕たちが当たり前だと思ってきた電力供給システムや土木事業による活性化システムは、国際標準的には歪んでいて、歪んでいる事実は〈任せて文句埀れる作法〉を続ける限りはわかりませんが、〈引き受けて考える作法〉にシフトすれば、ただちに仕組みがおかしいという事実への「気づき」がもたらされるということです。

どうして日本は、地域活性化と称してバイパスをつくったり、駅前再開発と称して大型ショッピングモールをつくったりしかできないんでしょうか。どうしてほかのアイディアが出ないんでしょうか。これは土建業者や、中央や都道府県の役人が悪いんじゃないんです。僕たちがそうした開発に異を唱えてこなかったというのが、いちばん大きいんです。

もともと外務省の役人で、『国家の罠』という本で「国策捜査」という言葉を広めた佐藤優さんが、重要な発言をされています。「私は役人を攻撃したことは一度もない。自分たちの自治によって社会的につくりだした公共や公がないから、それを埋め合わせるべく、役人が国家の名において公や公共を定義するということをやってきただけだ」と。

公共事業はぜんぶそうなんです。みなさんが自分で公共を定義しなければ、役人が定義するだけの話です。では、役人はどんな動機で定義するのか。新自由主義を主張したミルトン・フリードマン8は、「役人は公を口にしても、公のために働く動機を持ち得ないし、そうした動機を持続できない」という事実を証明した人です。

彼は誤解されがちですが、市場原理主義者ではなく、教育や医療にはできるだけたくさんの予算を使えと主張してきました。ただし予算をどこにつけるかを役人に判断させてはいけない。役人は自分のポケットが膨らむ決定しかしないからだ。そういうふうに彼は言いました。

たとえば日本では公立総合病院偏重主義があります。町医者がつぶれて総合病院にお金がつけられる。それが効率化と称されるわけです。でも体の弱い人は、総合病院まで何十キロも出かけられない。そう。学校の統廃合と同じです。それを役人は「効率化こそが公共性です」とかいうインチキを言って実行に移してしまった。

フリードマンが言うように、教育クーポンや医療クーポンを配れば、みなさんは地元の町医者で医療クーポンを使うし、地元の分校で教育クーポンを使うはずです。役人のインチキな公共性判断よりも、ずっとマシです。繰り返すと、公共事業は必要ですが、役人に公共性を定義させていたら、この社会は終わると言うことです。

僕の同級生や教え子を見る限り、役人になるときのマインドはなかなかいいんです。でも一〇年も経たないうちに、ミイラ取りがミイラになってしまう。理由は、四〇歳前後で課長や課長補佐になるまでに天下りの椅子を増やす政策を行なえた人しか昇任できない仕組みと、体育会的な承認システムの存在です。

これが日本の行政官僚制度の実態である以上、ある階級以上の役人には、仮に「公」と口にすることがあっても、まさに公のため、つまりみなさんのために、予算を使って行政を行なうという動機は存在しにくい。少なくともそんな動機がなくて周囲の価値観に合わせているだけでも、出世には影響がありません。

こうした実態を地域も支えています。三月七日に新石垣空港が開通しました。もともとは旧空港の滑走路を五〇〇メートル延伸すれば良いだけの話でした。でも地元の土建業者が猛反対。それだとお金がまわらないから新空港をつくるほうが良い、と。自治で使う予算を引っ張るのがたいへんなのは事実ですが、残念な展開です。

僕たちは、財政難の時代だからコスト圧縮の動機が行政に働くと考えがちだけれども、実際には「ダメだよ、それだと安上がりになりすぎる。もっと何倍もお金がかかるようにしてくれ」という要求に応じると、行政官僚が功績を讃えられるんです。だからコスト的に意味がない計画ほど実現してしまう。石垣新空港が典型です。

〈任せて文句埀れる〉たぐいの行政依存でなく、〈引き受けて考える〉という住民自治にシフトし、〈参加〉と〈包摂〉を旨とする政治を実現しない限り、経済的・社会的に空洞化した地域であればあるほど、コスト的に意味がないものがつくられ、やがては持続可能性の壁でゆきづまってしまいます。

みなさんは、みなさんが払った税金を住民自治に基づいて公共的に使うための努力をしなければなりません。それには、みなさんが公を定義しなければなりません。「自分たちのためになるのは、それじゃなくこれだ」と声を出すという癖をつけることなしには、残念ながら地域が生き残れる可能性はない。僕が住民投票にコミットする理由です。

國分―― その土地に住んでいる住民がその土地のことを決めるという自治の考えでやっていかなければ、実際に使えるお金がなくなってしまうこの時代にあってはもう生き延びていけないということですね。自治こそ、我々が生き延びていくための唯一の道である、と。

いま宮台さんがお使いになった言葉でとてもしっくりきたのが、「癖をつける」という言葉です。日本社会に生きる我々はまだ自治の「癖」がついていないんですね。だからすこしずつその「癖」をつけていかなければいけない。

中沢―― 日本人に身についてしまった思考法の癖があり、それが右にも左にもある。別の癖をつけていくには、相当意識的努力をしなくてはならないですね。

(撮影:加藤嘉六)

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